昭和44年05月03日  朝の御理解



  御理解 第53節
 「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということが分かるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」

  この頃から長井さんが、芍薬の大きな鉢に植わった、見事に花が咲いとりますが、その鉢を持って来て下さってあります。もういっぱい咲いておりますが、昼頃になるとこう萎んでしまうんですね。もうまぁ散る寸前でしょうが、それでもやはりあのう夕方忘れずに水をやっておきますとね、明くる日はまたシャーンっとこう、奇麗にまあ咲いております。結局夕方にやるそのお水が効く訳ですね。そりゃまぁ当たり前の事なんですけれども、お水をやっておくと明くる朝、生き生きと花が又しゃんとなっとります。
 そこで私は信心とはその思うんですがね、「元気な心で信心せよ」とこう仰るが、そのういつもどんな時でも、そうちょうど前の晩にお恵みの水を例えばこう頂いた植物のようにです明くる日は、瑞々しい生き生きとした葉であり花であるといった様なね、そのうおかげを頂く為にですね、これがそのしいら元気ではいけませんからね。「元気な心で信心せよ」と仰っても、そりゃしいら元気ではいけません。心の底からそれこそ明くる日は、そのいわゆる瑞々しいまでの、生き生きしたものがですね。
 そこにあらなければいけませんのですからね。ですからどうでも今日のこの53節のところの神意を理解さしてもらいね、ここへ「分かるようになる」ということを、「了解」と書いてありますよね。そこにそこの了解が出来るようになる。それにはですそのお恵みの水をあの蒔く事によって、植物がシャンと花があり葉が生き生きして来るというようにですね、あれもお恵みこれもお恵みと心の中に悟らして貰う事分かる事です。ですからいつも瑞々しいまでの、言うなら元気な心が底から底から湧いて来る。
 「これ程信心するのに、どうしてこういう事が起って来るであろうかと言えば、もう信心は止まっておる」と仰る様にです、もうやはりその本当の信心が止まっておる。「どうしてこの様な事が起って来るであろうかという様な、その事がすでにお恵みだと悟らしてもらう。いわゆるあれもおかげでありこれもおかげであると了解さしてもらう。そこからです、それがお恵みと分かるところから、そのう生き生きとした花であったり、葉であったりする様なおかげに繋がって来る訳です。
 なるほど目には見えません。けれども実際は目に見えぬおかげの方が多いとこう、「信心すれが目に見えるおかげより、目に見えぬおかげの方が多い」と、その多いところがです、段々体験さして貰う事によってですね、本当に神様のなさる事に無駄はない、神様のお働きに、寸分の間違いはないというようにです、体験づけられてまいりますところからです、段々あれもおかげである、これもおかげであるということが分かってくるようになる、了解が出けてくるようになる。
 ですから「どうしてこのような」といった様な、まぁそれを私共は難儀と呼んでおる。その難儀な問題がです、私共がそのおかげと見えれるようになるまで、そこが信心の稽古だと私は思うのよね。それが了解出来るところまで、けど話しを聞きゃ理屈を聞きゃおかげって分かっとりますばってんやっぱ腹が立ちます。おかげと思っとりますばってん、やっぱ心配になりますね、不安でありますとこういう。でそこんところをです、その不安やら腹が立つという様な事を、有り難いとお礼が言えれるようになり。
 その不安である事がです、もうそこでスキッと「はぁこれが心配する事じゃない、むしろお礼を申し上げる事だ」として、心の中に安らぎを頂く安心を頂く。そういう稽古を日々繰り返し日々そこんところからですね。でその間にですその所をですね、やはりあのう願いが必要なんですよね。やっぱり一生懸命願う事によって迫力が出る、願う事によって力が出る。51節にもございます様に「身の上安全を願い、家業出生五穀成就牛馬に至るまで氏子身の上の事なんなりとも願え、実意を持って願え」とこう。
 実意を持ってそれこそ牛馬の事にいたるまで願え「頭が痛うございます腹が痛みます」「こういう苦しい苦しゅうございます」ね、さっき申しますその「腹が立ちます」と「不安でなりません心配でなりません」と、それを願って願って願って行きよるとですね、願う事によって何とはなしに、また願う事によって修行さして貰う事によって、そこにそれがおかげになっていく、また安心が出けて来るこれは一つの信心の過程。私は最近と言うよりもそうですね、何時の頃からか知らんもうちょっと覚えませんけれども。
 もうやはり半年位なりましょうか。私のその何て言うですかね、心境って言うか、あのう願いが非常に自分乍らおかげを頂いて行きよる事があるんです。私皆さんもご承知のように、どこまでも私はその何て言うんですか、厳禁な男ですからそのう実感主義なんですね、美しい事じゃいかん信心は。だから自分のその実感痛いなら痛いという事を願え、痒いなら痒い事を神様に縋れと。人の事ば願わにゃならんけん願うといった様な願いじゃない。自分の事が第一番じゃないかと本気で自分自身の事を願えと。
 自分の一番切実に繋がりのある問題の事を、繋がりのある例えば家族、家庭の事を切実に願えと、でなかったら神様には通じない。これがまぁ私の流儀なんですね。けれどもそれに止まっておってはならないのだと。自分の事も切実に願われるならば、隣の人の事も切実に願えれるように、信心がなっていかなければいけませんよと。これが私の信心の言わば進め方なんだね。私共は以前はそうじゃなかったです。まずその「世界中の事を願う、日本中の事を願え。
 天皇陛下皇后陛下の事を願い皇室の事を願い、金光教の事を願い信奉者、信者一同の事を願い、段々段々狭うなっていって、一番最後に自分の事を願え」という風に教えられてきたんです。そして世界中の事やら日本中の事やらは、まぁ言うならば切実のないっ実感のなぁい願いであり、段々自分の事になって来るに従って、どうぞということになって来ておる事に気が付いてですね、そんな馬鹿な事はないと私は思う。だから一番痛いなら痛いという事を先ず願えって。
 ここに金が必要であるなら金のお繰り合わせを先ずしっかり願え。そのやはり実感でなからなければならん。ただ願う時にですその願うことがいわゆる「実意を持って願え」と仰るから、牛馬の事にいたるまで、いわゆる実意を持って願わして貰うという事に、まぁ私は私の願いのまぁ焦点のと言うか願い方と言うかね。私はそういう皆さんにもそれを聞いてもらって来たんですけれど。段々それがですねこの頃はそれをそこんところを願わんで済む様になって来た。
 そしてこれはもう本当にまぁお恥ずかしい話しですけれども、ようやく今そこが出けて来たということはですね、例えば拝詞に世界真の平和とかね、総氏子身の上安全といった様な所がございましょう。私はねそういう身の上世界中の氏子の身の上安全とかね、世界真の平和とかという風には、まだそういう風に言葉になって出てこない祈りが。けれどもね世界中の氏子の立ち行くという事、世界氏子だけじゃない世界中が立ち行くという事、現在戦争があっておる所。
 貧乏な国もありゃぁお金持ちの国もあるけれども、貧乏は貧乏なり戦争しておるなら戦争しておるなりにです、悟るところを悟れ分かるところを分からしてもろうて、その事によって立ち行くおかげを頂かして頂きたい。もうこの願いが実に切実です今私の祈りの中に。この事を願いよりますとですね、この事を願いよりますと、もう皆さんの事も願わんで済む様な気がするんです。皆さんがここでお取り次ぎを願われるから、お取り次ぎを一応さして頂きますけれども。
 私が例えばなら朝晩の御祈念の時にですね、この事が切実に願われる。世界中のですね真の平和でもなからなければ、氏子の身の上安全じゃない、どうぞ身の上安全じゃないです、もう身の上安全じゃなくてもです、危険に晒されておってもです、貧乏にさいなまれておってもです、世界中の氏子の立ち行き、そこから立ち行くおかげを頂かせて頂きたいという願いです。これはもう自分乍らもう本当に有り難いと思うんです。これはねけれどもやはり今さっき言う実感なのですからね。
 何故って言われると世界中の中に日本があり、日本の中に例えば九州があり九州の中に福岡県があり合楽があり、合楽の一部にここに合楽金光教教会というのがあり、その中にまた小さく言うなら大坪の家族があるのですから、この大きな事が切実に願えりゃそん中に。今にしてそれを私は思わしてもらうんですが、三代金光様にある宗教新聞の記者が、金光様をお尋ねしてから、お尋ねしたんですね御結界で、「金光様あなたは大体ここにこうして座って、毎日こうやって何十年間っていう間。
 御用なさっておられるという事でございますが、あなたは大体どういう事を願われますか神様に」って言うてそのお伺いしたんです。したら金光様がですね、「世界中の氏子の総助かりを願います」と仰った。これはあの新聞記者が申し上げた、金光様に。「金光様それはもうあまりにも漠然としてあまりにも大きくてですね、つかみどころがないような気がします。もう少し具体的にお説明願えませんか」と言うて申し上げたら金光様が、「大は小を行きます」と仰った。
 もうこれには一言で新聞記者がギャフン「大は小を叶えます」と。もう金光様のそういう世界中の事を願っておられる事が、いかに充実しておったかという事が分かるです。もう私共はそれがですねもう実に驚きでした。そういう事が実際に出来るだろうかと思うておった。ところが私がここやはり半年ぐらいでしょうかね、もうこの事が本当にあの実感として、これはね充実したといったようなもの、まだこれから限りがありませんよ。けれども現在私が本当にこれはもう皆んなの事はいっちょん願わんでもええ。
 もう今私がですね、あの世界中の立ち行きということ、こりゃもう氏子もお国もみんな一緒です。だからそこには戦争があっておっても良いんだと。身の上安全ではなくて、そこに例えば様々な難儀にさいなまれておっても良いのだと。そこからの助かりそこからの立ち行きを一生懸命に、願わしてもらったらもう一時間ぐらいの時間はもう、何時の間にかあっと言う間に、なくなるくらいにあります。そして私が思う事は、これがこがしこ一生懸命祈られ願えられればですね。
 誰やら彼やらの事は個人的な事なんかは願わんでん、もうおかげ頂くという確信があるです。最近これは私としては大変な進歩だと自分で思うとります。勿論これは限りがありませんよ。けれどもただ拝詞に言う、世界真の平和とか、あのう総氏子の身の上安全とか、それではないです全然違うです。もう世界中の氏子の立ち行き、世界中の立ち行きです、それはもうどういう中からでもいい、そこんところをです、今日私は53節の中から感じるのですよ。
 そこには戦争があっておっても良い、どういう難儀があっても良いってね、そこからの立ち行きということは、私はね「あれもおかげでありこれもおかげであったと分かるようになると」と、「その了解が出来るようになると、本当の信者じゃ」とこう仰る。戦争なら戦争難儀なら難儀というね、けれどもそれもよくよく分からして頂くと、 その事の中からです、そこんところをおかげと悟らして頂けれるような、信心のおかげの段取りとでも申しましょうかね。
 そこからのいわゆる立ち行くおかげ、そういう言わばその平和ではない、言わばあれにも満たされておる、これにも十分のおかげを受けておるといった様なものではなくてもです。例えて言うならひもじい思いをさして頂きながらもです、そこからそこのところがおかげと分かる様になるとこう、分かる様になる信心の世界、と言うものにお互いが開眼して、それもおかげでありこれもおかげであると分かる様になるような、私は世界顕現のおかげを頂きたい。そうなれば本当の信者じゃと。
 そこでならこれは今申しますように、真似ではいけんのですからねお互いが、実感でなからなければいけないのですからね。51節にもちゃんとこう教えておって下さるのでございますからね。身の上安全も願うが良い、自分のですよ自分の家族のですよ、商売繁盛も良かろう五穀成就も良かろう、いやそれどころではない牛馬の事に至るまでもと仰るのだからね。だからそこのところを本気で願わしてもらう信心、しかもそこんところを実意を持って願う信心。
 そこでその願い方なんです。そこでそこのところを繰り返し繰り返し願わして頂いておって、おかげを頂けば良いけれどもおかげにならないでしょう。なら例えば自分の身の上の様々なもう小さい問題、家庭上の事商売繁盛の事を願わしてもらったけども、それとは例えば裏腹の事になって来ると、そこにです私共はこれは実意を欠いでおるぞと、願い方が足りんぞと、熱意が足りんぞと一心が足らんぞ、真が足りんぞと分からして貰う。そこでこれは私の精一杯というものをです。
 様々な形で現わして、縋る事の信心を先ずさせて頂いて、いっぱし私は正確な信心、言うなればきちっとした信心、きちっとした信心修行。昨日から松栄会の方達が、入殿のおかげを頂いております。四日間、四日までですか、お休みが続きますから。けれどもお休みとは全然関係がないお仕事をしておる人達も沢山あります。けれどもまぁ入殿と言うことは三日間なら三日間という間をです、もう自分の家の事なんかはもう言うなら、投げ打ってという信心の稽古をする訳です。
 昨夜のこれは御理解の中にもございましたがね、昨日のちょうど八時か七時ぐらいからあったあの西洋映画があっておりましたが、何かこの宗教関係の映画でした。この自己の自己を犠牲にするとね、そこを起点として行く例えば生き方が、宗教だという様な事を言っておりますですね。自分自分というものを犠牲にして、そこから願うていく。それを金光教祖は「日に日に生きるが信心なり」と仰せられた。日に日に生きるが信心ということは日に日に自分という者を空しゅうしていく。
 日に日に自分という者を殺していく死んでいく。自分を殺していく言いたいけども言わん、したいけどもしないというようにです、自分という者を殺して行く生き方の中からしか、日に日に生きるという信心は産まれて来ないだろう。自分を空しゅうしていくんだと。そのためには「楽はせんぞ」という様な信心をさしてもらえ。もう楽はせん自分から求めて楽はせんぞとたださせて頂くんだと、神様がさせねばおかんという働きがあるものを、合掌して受けて行けと。
 そこにはもうそこに何と言うですかね、その極楽の世界と言うか、自分が思いもかけないほどの、ここに世界が開けて来るんだとね。そういう意味合いでなら、自分を空しゅうする稽古を皆さんはしておるのじゃないかと、松栄会の方達。しかも何日間しかも今日からと夕べの八時から。ところがその御祈念が始まってから、まだ皆んなが集まってない。「今日あんただん何時からだいたい集まるごとなっとったか」って聞きましたら、「八時から」と。それで私がそのまぁ会長の堤さんに言うんですよ。
 「あんたどんが気の利いたごつばっかりしてから、入殿とか何とか何のための入殿か」と、「もう一番始めから間違うとるじゃないか」とね。「あんた達が松栄会を発会する時に頂いた御理解、神様のあんた達に対する願いっていうものは、どういう願いであったか、またその願いに応えられなければ、松栄会に入会する資格はないとさえ言われたじゃないか。」言うならば「飛行機からねパラシュートを抱えて飛び降りるくらいな元気な心がなからなきゃいけないんだぞ」とね。
 「そのパラシュートを抱いて飛び降りる時にはです、もうすでに死んでおるんだと、その瞬間とても死んだ気でなからにゃ飛び降りやらされんのだと、と次の瞬間に助かっておるんだと、パラシュートが開いてこれはもう絶対のもんだ、金光様の御信心では。その例えば様な信心をモットーとして、松栄会が発会されたのに、しかもその松栄会の方達がです、ここではまぁ今までそういうことがなかった。去年からですね入殿のおかげを頂いて信心の言わば様々な収穫を得ておる訳なんだ。
 今年もまたそれをやろうというのにです、そういう精神の元に信心の稽古がなされていくのに、一番始めからずれだれのごたることでどうして出来るか」と、「あんただん気の抜けた事ばっかりしてから」と言うて私が、まぁ言いまぁ言うならばですね、もう本当に燃えておらなければそんな事言やしません言われはしません、相手がね。これからいよいよ熱しておらなければ、まぁ叩きもされません。だから何日間という間はです、本当に信心の稽古をさして頂くなら、そこんところをひとつ正確に。
 やっていかなきゃいけんという事でございましたがですね、そういう例えば意味合いにおいてです、信心を本気で信心の稽古をするということ。全信者が全入殿なんて言った様な事は不可能でございますけれどもです、お互いの生活の中に正確な信心をさしてもらい、キチッとした信心を目指さしてもろうて、そしてなら牛馬の事に至るまで願わしてもらえれる信心、どのような事でも願うがいい、そういう信心を繰り返し繰り返しさして頂いておる内にです、例えば私の祈りの内容と言うかね。
 それも例えばここんところの「あれもおかげであったこれもおかげであった」現在世界のどこかで戦争があっておる、世界中にはどんな様々な難儀の様相と言うものはです、言わば新聞とか、ならテレビラジオで報道されるように、様々な難儀な様相を呈しておりますけれどもです、その難儀の中から、その難儀を無くして下さいとは願わん、その難儀の中からです、立ち行くおかげを頂かして下されという願いが、この頃切実になってきた。それをその難儀その事もですよね。
 おかげと悟らしてもろうて「あれもおかげであったこれもおかげであったと分かる様になると」と仰る、そこんところを分からして貰う、おかげにならなければならないということが、そういう願い祈りになって来る。しかもそういう例えばなら偉大なと言うかね、世界中の事を願っておれば日本中の事は願わんでん良か、言わば合楽だけの事は願わんでん良か、その中に合楽はあるということ。そういう実感がですね。
 この頃非常に私の心の中に強うなって来たということを、有り難いなと自分で思うんです。「芽が出りゃ摘まれ葉が出りゃ刈られ、それでも茶ノ木に花が咲く」と。芽が出りゃ摘まれ、葉が出りゃかられ、その摘まれたり刈られたりする事自体もですおかげだと、分からしてもらう時に、どうして摘むか、どうして切るかと言わんで済むのです。それも神愛それもおかげと、悟らしてもらえるために私が申します。
 いわゆる正確な信心修行がなされなければです、そういう風に心の底から実感として、それを感じられない。そういうひとつの大きな悟りが開けてこない、これもおかげと悟れない。これがおかげと悟れれる、これがお恵みと悟れた時にです、私がなら夕方その芍薬に、お水をやっておくと、明くる日はしおれておる芍薬がシャァーンとなっておるようにですね。例えばその事もお恵みと分からしてもらえればです。
 摘まれる事も刈られる事もやはりおかげであると悟らしてもらうところにです、「どうして信心してこげん摘まれるじゃろうか」てんなんてんっていう様な寂しい心ではなくて、そこから生き生きしたものが頂けて来るんだと。全てをお恵みとして頂けれる。そこに瑞々しい生き生きとした信心、生き生きとした喜びが頂けて来るね。そこからお互いが立ち行くおかげを頂かしてもらわなければならんと思うですね。
      どうぞ。